Blog

以外と知られていない大阪の土地にまつわる歴史話

Penseur

2015.09.16

adachi@penseur.co.jp

おはこんばにちわ。

営業部ディレクターの足立です。

最近は1歳2ヶ月になる息子の成長スピードにプレッシャーを感じながら

自己成長に励んでいる次第でございます。

 

昨日の自分よりも今日、今日より明日の自分が成長しないと、

目標達成も夢実現もできませんね。

 

『今』に対しこだわりを持つことは、

現代社会ではとても重要なことだと思います。

堀江貴文さんも近大の卒業式のスピーチで言ってました。

 

「未来を恐れず、過去に執着せず、今を生きろ」と。


 

ほんまそやなと思います。

 

まぁ、フリはこのへんにして。

『今』『今』と言ってますが、僕は過去『歴史』も結構好きでして、

それも日本史とかじゃなくて『土地』にまつわる歴史です。

 

今回は、パンスール本社のある大阪の土地の歴史について

いくつかご紹介したいと思います。

 

◼︎大阪の土地にまつわる歴史その①靱公園


みなさんが靱公園をイメージされると、おそらく東西に長い形で、テニスコートやバラ園なんかが併設されている

とても綺麗な公園が頭に浮かぶかと思います。

靱公園今

こんな感じ。


今でこそ素晴らしい公園になっていますが、実は戦前はまだ「なにわ筋」は建設前で、現在の靱公園の東園と西園は


一繋ぎの形状をしていました。そして、昭和20年3月14日の空襲で一面の焼け野原と化し、終戦後はなんと進駐軍の飛行場


なっていました。あの長細い形状は飛行場の滑走路跡だったことが由来なんです。


ちなみに、滑走路時代の写真がこれ↓↓↓↓↓↓↓↓


靱公園昔


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう完全に滑走路ですね。

 

その後、昭和21年に戦災復興区画整理事業の公園と決定し、翌22年に都市計画公園


として認可されます。でも、進駐軍の飛行場だったこともあり、すぐには着工でき


なかったんです。


そして、昭和27年6月25日、やっと土地の返還を受け、同年7月1日工事を着工しました。


そしてそして、のべ20万人の作業者の手で、3年後の昭和30年10月21日に竣工、開園式が行われました。


この作業自体が、終戦後の雇用拡大の狙いだったと言われています。



◼︎大阪の土地にまつわる歴史その②扇町公園


なんか公園シリーズみたいになりましたが、続いては扇町公園。

地下鉄堺筋線扇町駅からすぐのところにあるこの公園は、マウンテンスライダーなどの大型遊具があり、広々とした公園です。

遠足の子どもたちや、休日には親子連れや散歩をする人たちで賑わう市民の憩いの場所ですね。

Exif_JPEG_PICTURE

 

 

 

 

 

 

 

 

 

関西テレビの隣にある、比較的大きな公園です。(正面が関西テレビ)

大正12年(1923年)に開園した古い公園でもあります。

 

でも、そんな楽しげな印象とは裏腹に、実はちょっと怖い歴史を持つ場所でもあるんです。

 

扇町公園は、今の姿になる前、堀川監獄(大阪監獄署)という刑務所でした。

大きさは今の扇町公園よりやや大きいぐらいです。

 

当時の地図がこちら↓↓↓↓↓↓↓↓

ogimachi_t03

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

完全に刑務所ですね。ってか監獄署って。。

しかも、処刑対象になるような、極悪人を収容していたそうです。

 

ここでちょっとホラーな話をしますと、、

新しい公園に生まれ変わっても 、堺筋に面した東南一部はいびつな地形をしています。

堺筋はその場所だけ不自然な形で地下に潜っているんです。歩道もそこだけぷつっと切れてます。 

天六方面に行くには、公園に一旦入り、北側出入口から出ないといけない超不便な作りをしてます。 

整備すればえーやん!!と思うのですが、、

 

実は、戦時中に防空壕が空襲を受けた際 、200名以上の人々がその中で亡くなったんだそうです。

しかも今も生き埋めになったままのようです。 

そんな過去を持つ扇町公園では、古いプールがあった頃、水に潜ると子供の声が聞こえたり、

夕方になれば兵隊の幽霊が出るなど 、心霊話が尽きないそうです。

 

ね、結構土地にまつわる歴史を紐解くと、興味深い事実が浮かび上がってくるでしょう?

他にもまだまだたくさんありますが、今回はここまで。

 

皆さんも、住み慣れた街の歴史を調べてみると、面白い発見があるかもしれませんね。